2025年7月14日、日本の音楽界に計り知れない影響を与えた渋谷陽一さんが74歳で永眠されました。
音楽雑誌「rockin’on」の創刊から始まり、ROCK IN JAPAN FESTIVALのプロデュースまで、半世紀以上にわたって日本の音楽文化を牽引してきた偉大な人物です。
2023年11月に脳出血を発症し、リハビリに取り組まれていましたが、誤嚥性肺炎を併発して帰らぬ人となりました。
今回は渋谷陽一さんの華麗な経歴と、あまり知られていない家族についての情報をお伝えします。
渋谷陽一の経歴を徹底解説!音楽評論家として歩んだ道のり
渋谷陽一さんは1951年6月9日に東京都新宿区で生まれ、音楽評論家として異例の若さでデビューを果たしました。
実家は目白のお屋敷街にあり、父親は東京大学卒の大和銀行員、母親は東京都北区赤羽の大地主の娘という恵まれた環境で育ちます。
しかし彼が選んだのは安定した道ではなく、ロック音楽への情熱に身を捧げる人生でした。
わずか20歳で音楽雑誌を創刊し、日本の音楽業界に革命をもたらした軌跡を辿ってみましょう。
ロッキング・オン創設までの若き日々

東京都立千歳丘高等学校在学時から『音楽専科』等のロック誌に寄稿し、18歳の時グランド・ファンク・レイルロードのレコード評で音楽評論家としてのキャリアを始めました。
明治学院大学経済学部に進学したものの中退を選択し、音楽への道を歩み続けます。
1971年、わずか19歳でミュージックライフ誌にて音楽評論家デビューを果たし、「枯れたロック界に水をまく放水車G.F.R.『サバイバル』について」というタイトルで注目を集めました。
大学在学中の1970年には、水上はるこが中心となっていたミニコミ誌『レボリューション』を新宿のロック喫茶で発見し投稿。
この出会いが後の『rockin’on』創刊へとつながっていくのです。
音楽雑誌界に革命をもたらした功績

1972年、渋谷陽一さんは20歳で個人事業として洋楽ロック批評・投稿誌「rockin’on」を創刊します。
印刷費18万円で3,000部が刷られ、スタッフによる人海戦術で都内および東京近郊の書店やロック喫茶、楽器店等に販売委託されました。
創刊号がほとんど売れ残るという厳しいスタートでしたが、読者投稿型というユニークな形態が徐々に支持を集めていきます。
1986年には邦楽ロックを扱う「ロッキング・オン・ジャパン」を創刊し、いずれも日本を代表する音楽雑誌に成長させました。
その後も「CUT」「BRIDGE」「H」「SIGHT」「SIGHT ART」など数々の雑誌を創刊し、日本のカルチャーシーンに多大な影響を与え続けています。
テレビ・ラジオでの活躍と影響力

1973年にNHK第1「若いこだま」でラジオDJデビューを果たした渋谷陽一さんは、その後NHK-FM「ヤングジョッキー」「サウンドストリート」「ワールドロックナウ」など、50年以上にわたりラジオDJを務めました。
特に「ワールドロックナウ」は長寿番組として多くのリスナーに愛され続け、2024年3月30日に番組が終了するまで、日本の音楽ファンに最新の洋楽情報を届け続けました。
テレビでも1985年にテレビ朝日系列「ショウビズTODAY」で番組構成者キャリアをスタートし、1998年にはテレビ東京系列「JAPAN COUNTDOWN」の放送を開始するなど、メディア全体に大きな影響力を持ち続けました。
渋谷陽一の現在と嫁について!結婚生活や家族の真実
音楽業界で華々しい活躍を続けてきた渋谷陽一さんですが、プライベートな面については多くを語らず、家族に関する情報も限定的でした。
2023年11月に脳出血を発症し緊急入院、手術後は療養を続けながらリハビリに取り組んでいましたが、2025年に入り誤嚥性肺炎を併発し、同年7月14日に74歳で永眠されました。
葬儀は故人の意向により、近親者のみで執り行われました。長年にわたり音楽業界を支えてきた偉大な人物の最期の時について、そして支えてきた家族についてお伝えします。
現在の活動状況と最新の仕事内容

2024年3月31日にロッキング・オン・グループ代表取締役社長を退任し、代表取締役会長に就任した渋谷陽一さんでしたが、実際には2023年11月17日に病気療養のため入院することが発表され、株式会社ロッキング・オン・ホールディングスおよび株式会社ロッキング・オン・ジャパンは代表取締役副社長海津亮さんが、株式会社ロッキング・オンは代表取締役副社長山崎洋一郎さんが社長職務を代行していました。
2022年には原作・脚本・製作総指揮を務めたIP(映像・キャラクター開発)事業「ラプソディ」をスタートさせるなど、最後まで新しい事業に挑戦し続けていた姿が印象的です。
残念ながら2025年7月14日に誤嚥性肺炎のため74歳で逝去されました。
嫁との馴れ初めと結婚までの経緯

渋谷陽一さんの配偶者については、非常に限られた情報しか公開されていません。
葬儀は故人の意向により、近親者のみで執り行われたと発表されていることから、家族がいることは明らかですが、奥様の名前や職業、結婚時期などの詳細な情報は一切公表されていません。
渋谷陽一さん自身が家族のプライバシーを大切にし、公私を明確に分けて活動していたことがうかがえます。
音楽業界という華やかな世界にいながらも、家族に関する情報を秘匿し続けた姿勢は、家族を守りたいという強い意志の表れだったのかもしれません。
これまでのインタビューや著書においても、家族について語ることはほとんどありませんでした。
家族構成や子供についての噂

渋谷陽一さんの家族構成についても、具体的な情報はほとんど明かされていません。
公式発表では「近親者のみで葬儀を執り行った」とあることから、配偶者以外にも家族がいることは推測されますが、子供の有無や人数、年齢などの詳細は不明です。
これは渋谷陽一さんが長年にわたって家族のプライバシーを徹底的に守り抜いてきた結果といえるでしょう。
音楽評論家として公の場で活動し、ロッキング・オン・グループの代表として業界の最前線にいながらも、家族については一線を引き続けた姿勢は一貫していました。
このような配慮により、家族は一般の生活を送ることができ、メディアの注目から守られてきたのです。
渋谷陽一wikiプロフィール

プロフィール
- 生年月日:1951年6月9日
- 逝去:2025年7月14日(享年74歳)
- 出身地:東京都新宿区
- 学歴:東京都立千歳丘高等学校卒業、明治学院大学経済学部中退
- 職業:音楽評論家、編集者、ラジオDJ、フェスプロデューサー
- 家族:配偶者(詳細非公開)
経歴
1951年 6月9日、東京都新宿区に生まれる
1971年 19歳でミュージックライフ誌にて音楽評論家デビュー
1972年 20歳で個人事業として洋楽ロック批評・投稿誌「rockin’on」創刊
1973年 NHK第1「若いこだま」でラジオDJデビュー
1986年 邦楽ロック批評誌「ROCKIN’ON JAPAN」創刊
1989年 カルチャー誌「CUT」創刊
2000年 大型ロックフェスティバル「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」をプロデューサーとして初開催
2003年 全国初となる冬の年越し屋内フェスティバル「COUNTDOWN JAPAN」をプロデューサーとして初開催
2023年11月 脳出血を発症し緊急入院
2024年3月31日 ロッキング・オン・グループ代表取締役社長を退任し、代表取締役会長に就任
2025年7月14日 誤嚥性肺炎のため74歳で逝去
まとめ

渋谷陽一さんは、わずか20歳で音楽雑誌『rockin’on』を創刊し、日本の音楽文化に計り知れない影響を与えた偉大な人物でした。
音楽評論家、編集者、ラジオDJ、フェスプロデューサーとして多方面で活躍し、半世紀以上にわたって日本の音楽シーンを牽引し続けました。
特に『ROCK IN JAPAN FESTIVAL』や『COUNTDOWN JAPAN』などの大型音楽フェスティバルを成功させ、日本のフェス文化の発展に大きく貢献したことは特筆すべき功績です。
また、50年以上にわたるラジオDJとしての活動では、数多くの音楽ファンに最新の音楽情報を届け続けました。
一方で、家族に関する情報については生前から一貫してプライバシーを守り抜き、公私を明確に分けて活動していました。
この姿勢は、家族を大切に思う渋谷陽一さんの人柄を物語っています。
2025年7月14日に74歳で永眠された渋谷陽一さんですが、彼が築き上げた音楽文化とその遺産は、これからも多くの人々に愛され続けることでしょう。
日本の音楽界における巨星の逝去は惜しまれてなりませんが、その功績は永遠に語り継がれていくはずです。