【画像】オジーオズボーンの若い頃の経歴とwikiに載らない衝撃的な噂を調査!

「メタルの帝王」として世界中のロックファンから愛され続けたオジー・オズボーンさんが、2025年7月22日に76歳でこの世を去りました。

ブラック・サバスのボーカリストとして、そしてソロアーティストとして数々の伝説を築いた彼ですが、その人生には表に出ない驚きのエピソードが数多く存在します。

今回は、wikiには載らない若い頃の衝撃的な体験や、彼の波乱万丈な経歴について詳しく調査しました。

目次

オジーオズボーンの若い頃の衝撃的エピソード

オジー・オズボーンさんの若い頃を振り返ると、現在の伝説的なイメージからは想像もつかないほど過酷で困難な時代がありました。

労働者階級の家庭に生まれ、学習障害に悩み、社会への不適応から犯罪に手を染めるなど、音楽に出会うまでの彼の人生は決して順風満帆ではありませんでした。

しかし、これらの苦難の経験こそが、後の破天荒で独創的なパフォーマンスの原点となったのです。

10代の頃の問題行動と家庭環境

オジー・オズボーンさんは1948年12月3日、イギリス・バーミンガムの労働者階級の家庭に6人兄弟の4番目として生まれました。

幼少期からディスレクシア(読字障害)を患い、学校生活は困難を極めました。

授業についていけず、教師や同級生からは「頭が悪い」と見なされ、いじめの対象となることも多かったといいます。

この学習障害は当時あまり理解されておらず、彼の自尊心を大きく傷つける結果となりました。

家庭環境も決して恵まれたものではなく、戦後まもない時期の貧困生活を余儀なくされていました。

15歳で学校を中退した後は、配管工の見習いや自動車工場の組み立て工、食肉処理場の作業員など様々な肉体労働に従事しましたが、どれも長続きしませんでした。

社会に馴染めない苛立ちから、若い頃には窃盗などの軽犯罪に手を染め、17歳で短期間刑務所に収監される経験もしています。

ブラック・サバス結成前の知られざる音楽活動

オジー・オズボーンさんが音楽の世界に足を踏み入れたのは、社会への不適応と絶望感の中で唯一の光を見出したからでした。

特にビートルズの音楽に深く感動し、「自分にも何かできるはず」という希望を抱くようになります。

学校を辞めた後、「バンドメンバー募集」という手作りのチラシを街中に貼り回り、この行動がきっかけで運命的な出会いが生まれました。

集まったのがトニー・アイオミさん(ギター)、ギーザー・バトラーさん(ベース)、ビル・ワードさん(ドラム)で、最初は「アース」というバンド名で活動を開始しました。

初期の活動は決して順調ではなく、地元のクラブや小さなライブハウスでの演奏から始まり、観客の反応も今ひとつでした。

しかし、メンバー同士の音楽的な化学反応は確実に生まれており、重厚で暗いサウンドを追求していく中で、後のヘヴィメタルの基礎となる音楽性を徐々に確立していきました。

若い頃の薬物依存とその影響

オジー・オズボーンさんの若い頃の最も深刻な問題は、薬物とアルコールへの依存でした。

ブラック・サバスが成功を収めるにつれて、ロックスターとしてのプレッシャーや有名になることへの戸惑いから、逃避手段として薬物に手を出すようになりました。

1970年代、特に4thアルバム『Vol.4』制作時には、メンバー全員がロサンゼルスでドラッグ漬けの生活を送っていたと証言されています。

オジーさん自身も後に「アシッド(LSD)をドリンクに入れて摂取するのが流行していて、あまり気にせずたくさん摂取していた」と語っています。

この薬物依存は彼の判断力を著しく低下させ、1979にブラック・サバスから解雇される直接的な原因となりました。

当時の記憶について「この頃の記憶がほとんどない」と本人が語るほど深刻な状態で、加えて父親の死という精神的ダメージも重なり、日常生活にも支障をきたす状況となっていました。

しかし、この苦しい経験が後のソロ活動での楽曲制作に深い影響を与え、自己と向き合った内面的な歌詞を生み出すきっかけにもなったのです。

オジーオズボーンの経歴に隠された驚きの噂

表舞台では「メタルの帝王」として君臨したオジー・オズボーンさんですが、その経歴の裏側には数々の衝撃的な噂や真実が隠されています。

コウモリや鳩を食いちぎる伝説的なパフォーマンスから、家族との確執、そして奇跡的な体質まで、彼の人生には常識を超えた出来事が次々と起こりました。

これらのエピソードは時として誇張されて伝えられることもありますが、その多くは実際に起こった真実の出来事なのです。

ブラック・サバス時代の衝撃的な舞台パフォーマンス

ブラック・サバス時代のオジー・オズボーンさんは、既に破天荒なパフォーマンスで観客を驚かせていました。

バンドの楽曲が持つダークで重厚な世界観を体現するため、ステージ上では悪魔的なイメージを全面に押し出していたのです。

特に印象的だったのは、生肉をステージから観客に投げつけるという奇妙なファンサービスでした。

観客もそれに応える形で、最初は猫や鳩の死体のレプリカをステージに投げ返していましたが、それが次第にエスカレートし、ついには本物の動物の死骸を投げつけるようになってしまいます。

ライブ後の会場は客が持ち込んだ生肉と血の生臭い匂い、そして腐臭に包まれ、主催者から大目玉を食らうこともしばしばでした。

さらに驚くべきことに、ステージに生きたヤギが放たれていたこともあったという証言も残っています。

これらのパフォーマンスは当時の音楽界では前例のないもので、オジーさんの名前を一躍有名にする一方で、多くの批判も浴びました。

ソロ活動初期の危険すぎる行動と事件

ソロ活動を開始したオジー・オズボーンさんの破天荒ぶりは、さらにエスカレートしていきました。

最も有名な事件は1982年1月20日、アイオワ州デモインでのコンサート中に起こった「コウモリ食いちぎり事件」です。

ファンがステージに投げ込んだコウモリの死骸をおもちゃだと勘違いし、頭を噛み切ってしまったのです。

コウモリは狂犬病ウイルスを保有している可能性があるため、オジーさんは救急病院へ緊急搬送され、その後数ヶ月間、毎日のように体中に注射を刺しながらツアーを続ける羽目になりました。

味について本人は「塩辛かった」と語っています。

また、記者会見では生きた鳩の首を食いちぎる事件も起こし、この事件がきっかけでオジーさんの知名度は音楽ファン以外にも広まりました。

1982年にはテキサス州サンアントニオの国民的遺産アラモ砦で立ち小便をし、10年間テキサス州でのライブ活動禁止という処分を受けるなど、常識を逸脱した行動が続きました。

これらの行動は薬物とアルコールの影響によるものでしたが、結果的にオジーさんの伝説的なイメージを確立することになったのです。

家族との確執と和解の真相

オジー・オズボーンさんの私生活においても、数々の確執と和解が繰り返されました。

特に妻シャロンさんとの関係は複雑で、オジーさんの薬物・アルコール依存が原因で何度も別居危機に陥っています。

2013年には、夫のアルコール・薬物依存に嫌気がさしたシャロンさんが、結婚31年目でオジーさんと別居し、ビバリーヒルズのホテルで暮らし始めました。

この時、シャロンさんは「オジーが酒や薬に手を出さないよう24時間、365日監視する禁酒・禁薬チーム」まで雇ったほどでした。

子どもたちとの関係も決して順調ではなく、特に娘のケリーさんは父親の依存症について公の場で言及し、家族の苦悩を赤裸々に語っています。

しかし、家族の絆は強く、オジーさんが断酒に成功すると再び同居を始めるなど、困難を乗り越えて結束を深めていきました。

最近では家族で「The Osbournes Podcast」を配信し、和やかに会話する姿を見せています。

興味深いことに、1歳の孫メイプルちゃんはテレビでオジーさんを見ると喜ぶものの、実際に会うと恐れて泣いてしまうという微笑ましいエピソードもあります。

オジーオズボーンwikiプロフィール

プロフィール

  • 本名: ジョン・マイケル・オズボーン(John Michael Osbourne)

  • 生年月日: 1948年12月3日

  • 没年月日: 2025年7月22日(享年76歳)

  • 出身地: イングランド・バーミンガム

  • 職業: ヘヴィメタル・ミュージシャン、シンガーソングライター

  • 愛称: 「オジー」「プリンス・オブ・ダークネス」「マッドマン」「メタルの帝王」

  • 配偶者: シャロン・オズボーン(1982年〜2025年)

  • 子ども: エイミー、ケリー、ジャック

  • 主な受賞歴: グラミー賞5回受賞、ロックの殿堂殿堂入り(2024年)

経歴

1948年 – イングランド・バーミンガムに6人兄弟の4番目として生まれる

1963年 – 15歳で学校を中退、様々な肉体労働に従事 

1965年 – 17歳で窃盗により短期間刑務所に収監 

1968年 – トニー・アイオミ、ギーザー・バトラー、ビル・ワードと「アース」を結成 

1969年 – バンド名を「ブラック・サバス」に変更 

1970年 – ブラック・サバスとしてデビューアルバム『Black Sabbath』をリリース 

1970年代 – 「Paranoid」「Iron Man」などの名曲を発表、ヘヴィメタルの基礎を築く 

1979年 – 薬物・アルコール問題によりブラック・サバスを解雇 

1980年 – ソロデビューアルバム『Blizzard of Ozz』をリリース、「Crazy Train」がヒット 

1982年 – シャロン・アーデンと結婚、「コウモリ食いちぎり事件」発生 

1996年 – ロックフェス「オズフェスト」を創設 

2002年 – リアリティ番組『The Osbournes』で新たなファン層を獲得 

2020年 – パーキンソン病を公表 

2023年 – 第65回グラミー賞で最優秀ロック・アルバム賞受賞、ツアー活動から引退表明 

2024年 – ロックの殿堂パフォーマー部門で殿堂入り 

2025年7月 – 故郷バーミンガムで最後のコンサート『Back to the Beginning』開催 

2025年7月22日 – 76歳で逝去

まとめ

オジー・オズボーンさんの人生は、まさに波乱万丈という言葉がふさわしいものでした。

労働者階級の貧しい家庭に生まれ、学習障害に悩み、犯罪に手を染めた少年時代から、世界的なロックスターとして君臨するまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。

薬物・アルコール依存との長い闘い、家族との確執、そして数々の破天荒なエピソードなど、彼の経歴には常識を超えた出来事が散りばめられています。

しかし、これらすべての経験が彼の音楽に深みと説得力を与え、世界中のファンの心を掴み続けたのです。

「メタルの帝王」として、そして一人の人間として、最後まで自分らしく生き抜いたオジー・オズボーンさんの伝説は、これからも多くの人々に語り継がれていくことでしょう。

彼が築いたヘヴィメタルという音楽ジャンルと、型破りな生き方は、後世のミュージシャンたちにとって永遠のインスピレーションとなるに違いありません。

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