昭和を代表する童謡「黒ネコのタンゴ」で一世を風靡した皆川おさむさん。
6歳という幼さで日本中の人々に愛される名曲を歌い上げ、子役ブームの火付け役となった天才少年の人生は、華やかな成功と波乱に満ちた転落、そして感動的な復活劇に彩られています。
2025年7月23日に62歳で永眠された皆川おさむさんの生涯を振り返り、若い頃の輝かしい活動から晩年まで、その真実の経歴に迫ります。
皆川おさむの若い頃~デビュー当時の輝かしい活動
皆川おさむさんの芸能人生は驚くほど早くから始まりました。
伯母である皆川和子さんが創設した「ひばり児童合唱団」で才能を開花させ、わずか3歳という幼さでプロの歌手としてのキャリアをスタートさせています。
その後の活躍は日本の音楽史に残る偉業となり、多くの人々に愛され続ける名曲を生み出しました。
童謡歌手としてデビューした幼少期の姿

皆川おさむさんは1963年1月22日に東京で生まれ、3歳からひばり児童合唱団に所属していました。
伯母の皆川和子さんが主宰するこの合唱団で、幼い頃から本格的な音楽教育を受けていたのです。
同じく3歳のとき『ヤン坊マー坊天気予報』の「火星編」のCMソングをレコーディングするなど、プロとしての活動を開始しました。
当時から透明感のある美しい歌声と、年齢を超えた表現力を持っていた皆川おさむさんは、音楽関係者の間で注目を集める存在でした。
幼い頃から厳しい練習を積み重ね、歌うことへの純粋な喜びを抱いていた姿は、多くの人々の心を打ちました。
「黒猫のタンゴ」大ヒット時の若き日の皆川おさむ

6歳のとき、「黒ネコのタンゴ」でレコードデビューした皆川おさむさんの人生は、この楽曲によって大きく変わりました。
オリコンチャートで14週連続で1位を記録するなど空前の大ヒットとなり、レコードの総売上枚数は260万枚に達しています。
当時6歳10か月の皆川おさむさんだったことから「子供歌手ブーム」が起こり、日本の音楽界に新たな風を吹き込む結果となりました。
舌足らずでありながらも情感豊かな歌声は、子どもから大人まで幅広い世代に愛され、この楽曲は現在でも多くの人に親しまれています。
このヒットは日本だけに留まらず、アメリカやオランダでも販売され、イタリア語・英語・ドイツ語・フランス語など世界6か国で歌詞を吹き込み、全世界で400万枚も売れるという国際的な成功を収めました。
子役時代の貴重な画像と当時のエピソード

「黒ネコのタンゴ」の成功により、皆川おさむさんは歌手としてだけでなく子役としても活躍の場を広げました。
1969年の6歳の頃に映画「チンチン55号!出発進行」で子役デビューすると、1970年にも「こちら55号応答せよ!危機百発」や「恋の大冒険」など俳優としても活躍しています。
当時の皆川おさむさんは、テレビ番組やCMにも頻繁に出演し、日本中の茶の間で愛される存在となっていました。
子どもらしい無邪気さと、プロとしての完成度を併せ持つパフォーマンスは多くの人々を魅了し、昭和の芸能界に大きな足跡を残しました。
「もともと芸能界に憧れていたわけではなかったし、自分には演技の素養がないこともわかっていた」と後に振り返っているように、天然の魅力で人々を惹きつけていたのです。
皆川おさむの経歴変遷と現在の活動状況
皆川おさむさんの人生は、童謡歌手としての華やかな成功の後、声変わりとともに大きな転換期を迎えます。
芸能界から一時距離を置いた時期には、音楽への情熱を別の形で追求し、人生の困難な局面も経験しました。
しかし、最終的には音楽教育者として新たな道を歩み、多くの子どもたちに歌の素晴らしさを伝える使命を全うしています。
童謡歌手から声優・俳優への経歴転換

声変わり後はドラムに転向、洗足学園音楽大学で打楽器を専攻した皆川おさむさんは、歌手としてのキャリアに区切りをつけ、新たな音楽の道を模索しました。
「声変わりして子どもらしい高い声が出なくなったら終わりかな、と自分でもわかっていた」と当時を振り返っているように、現実を受け入れながらも音楽への愛情は失いませんでした。
大学では打楽器を本格的に学び、音楽的な素養をさらに深めています。
しかし、青年期には人生の迷いもあり、1984年4月14日に窃盗の容疑で逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けるという困難な経験も乗り越えました。
「自分のカー用品のお店を開くために窃盗を繰り返した」と供述しており、将来への不安から道を誤った時期もありましたが、その後は真摯に更生への道を歩んでいます。
現在の皆川おさむの活動内容と近況報告

皆川おさむさんは人生の後半において、音楽教育者として新たな使命を見出しました。
2004年にひばり児童合唱団の創立者でもあり伯母でもある皆川和子が脳梗塞で倒れたことを機に、ひばり児童合唱団の代表に就任し、子どもたちの音楽教育に生涯を捧げる決意を固めています。
「音楽を通して豊かな感性を育て、思いやりのある心を持てるように、そして『誰もが楽しく歌える合唱団』をモットーにしています」というメッセージからは、教育者としての深い愛情が感じられます。
晩年は健康面での困難も抱えており、糖尿病で腎臓を悪化させ、2012年に姉から片方の腎臓を提供してもらう移植手術を受けていたことが明かされています。
そして2025年7月23日に慢性腎不全のため62歳で永眠されました。
皆川おさむwikiプロフィール

プロフィール
本名:皆川 理(みながわ おさむ)
生年月日:1963年1月22日
没年月日:2025年7月23日(享年62歳)
出身地:東京都
職業:元子役、童謡歌手、ひばり児童合唱団代表
所属:ひばり児童合唱団(代表)
家族:伯母:皆川和子(ひばり児童合唱団創設者)
経歴
1966年(3歳) | ひばり児童合唱団に入団、『ヤン坊マー坊天気予報』CMソング録音 |
1969年(6歳) | 「黒ネコのタンゴ」でレコードデビュー、映画「チンチン55号!出発進行」出演 |
1970年代前半 | 「サッちゃん」「空とぶじゅうたん」などリリース、テレビ・映画出演多数 |
1970年代後半 | 声変わりにより芸能活動縮小 |
1984年(21歳) | 洗足学園音楽大学在学中に窃盗で逮捕、執行猶予付き有罪判決 |
1990年代 | 造形デザイン関連の仕事に従事 |
1999年 | 「だんご3兄弟」カバーCDリリース |
2004年 | ひばり児童合唱団代表に就任 |
2008年 | 「ケロ猫のタンゴ」(アニメ『ケロロ軍曹』ED)リリース |
2012年 | 糖尿病悪化により姉から腎臓移植 |
2025年7月23日 | 慢性腎不全のため横浜市内の病院で死去 |
まとめ

皆川おさむさんの62年間の人生は、まさに光と影が交錯する波乱万丈なドラマでした。
6歳で「黒ネコのタンゴ」を歌い日本中を魅了した天才少年は、声変わりという自然の摂理により歌手としてのキャリアに区切りをつけ、青年期には人生の迷いから過ちを犯すこともありました。
しかし、最終的には伯母から受け継いだひばり児童合唱団の代表として、多くの子どもたちに音楽の素晴らしさを伝える教育者となり、人生を全うされました。
昭和という時代に生まれ、令和の時代に旅立った皆川おさむさんの「黒ネコのタンゴ」は、今も多くの人々に愛され続けています。
彼の歌声は永遠に色褪せることなく、日本の音楽史に刻まれた貴重な財産として語り継がれていくことでしょう。
皆川おさむさんのご冥福を心よりお祈りいたします。